昔からよく天井の無い夢をみた。
部屋だろうが電車内だろうが学校だろうが夢の中の僕がいる空間、
つまり夢の舞台には言葉のとおり天井がない。
頭の上にあるのはいつでもむきだしの夜の空だ。
時には僕の体が海の底らしき場所に沈んでいることもあるが、
そのときは海水の向こうにやはり黒い夜が見える。
深い深い闇だ。
夢のなかでは基本的に自分の思ったとおりにまわりの景色を変えられるから、
僕はよくその味気のない空にやたらと星を乗せてやった。
願ったとおり星はばからしいくらいに輝いてくれたけれど、
何故だか僕にはどうしても空の色自体の様子は変えられなかった。
たまに、それほど頻度は多くないけれど空は真っ赤な夕暮れになる。
あまりの赤さは恐ろしくも感じられたのに、それ以上深く考えようとはしなかった。
この夢の中の空の仕組みや成分やその向こうになにがあるかとか、そういうことは僕が知らなくてもいいことなのだと思っていた。
ただなんとなく落ち着かなくて、はやく日が沈んでいつもの夜になればいいのにと思うのだが
空は僕の意思では変わってくれないからどうにもならない。
まるで自分の一部ではないかのようだ。
恐ろしくも安寧のある、僕を囲う僕ではないような空。
事実あの空は僕のものではなかった。
ずっと僕の空間をまるごとくるみこんでいた、
いや、くるみこんでいるのがバクラだと気づいたのはずっとあとのことだ。
天井の無い理由がわかったのもずっとずっとあとのことだ。
顔の正面から大きく風を受けて、ついでに酸素を思い切り吸い込む。
こんな緑のほかになにも無いような場所なんて行ったことはないが、どうやら空気は新鮮らしい。
僕の首筋に埋まった頭の髪の毛もふわふわと風にそよいでいる。
「今度はどうしたのー?僕腰打ったんだけど。痛いんだけどー。
ていうか人って寝転がってる状態で足の間に入られるとそうそう動けないってしってた?
むしろ知っててやってるの?もしかしてこんなぎっちり抱き込んでるのは窒息しろってこと?やだなー悪趣味ー」
あたりに群生する植物のあおくさい薫りがやたらとリアルに感じられて、思ったよりおだやかに声が出る。
期待はしていなかったが返事はない。
ああ今日の夢のステージは緑の草の生えたさわやかな草原か珍しい、
と思うやいなやバクラが正面からのしかかってきて僕をその地面に押し付けた。
生身の僕は眠りに付いたはずなのに僕の意識がこうして起きている感覚にはいつまでたっても慣れない。
肩越しには空がみえる。とてもとてもあおい。
空の色はあいつの頭の中身に左右される。僕に権限はない。
夜の色ならいつもどおり、夕暮れの色ならひどく腹を立てていて機嫌が悪い。
今日は綺麗な青空だ。
一応現実の方は深夜だろうに、今この空間にはかわいそうなくらいに闇がない。
気持ちの悪いくらいの快晴はつまりこいつの頭が狂いはじめている証拠だ。
ご丁寧に雲まで流れているがそれもどうやら僕の支配が及ぶところではないらしい。
その乳白色の物体はきっとバクラの腫瘍のようなものなのだろう。
恨みやなにやらを成分とした雲。
あまりのまぶしさに僕は空に向かって目を細めた。
「ねえねえねえー息とかしにくいよーくっつくならもう少し力弱くしてー」
一向に反応を返さないバクラにじれて、僕は割り入られた体勢はそのままに腰をかかとで蹴った。
するとようやくバクラが僅かに顔を上げて、間に隙間ができる。
「ちょっと黙ってろ、てめえはよ」
呼吸がしにくいのは本当だったからありがたいけれど、
やっと見えたバクラの顔は案の定無表情を装っている。
こういうときのバクラの顔はいつにもまして白い。
まるで冷気が出ているかのように青白い。
感情が高まるほど白く白くなっていく。
あまりよくないことだと思う。
「黙ったら僕寝ちゃうけどいいの」
「起きてろばか」
「うわーなあにこの人とんだ亭主関白だよ」
重力に逆らわず流れている髪の束を少しだけ引っ張って抗議をすると、
バクラがうるせえと苦々しげに吐き捨てた。
子供の頃、空の様子がいつもと違うときに感じていた恐怖はまぎれもなくこいつのせいだったのだろうなと今になって思う。
あの恐怖感は、孤独で怖いとかそういう類ではなかったのだ。そうまさしく誰かの激情および逆鱗に触れてしまったような、対人の恐ろしさだった。
僕に腕をまわすかわりに、バクラは地面の上に両方の手のひらをつけて、
そこに爪をたてる。
僕の顔のすぐ横で五本の青白い指が茶色い土の中に食い込んだ。
直接的に抱きつかれるより何故だかよっぽど囚われた気がする。
不安定になっているのだろう、この愚かで朧気な精神のみの体が。
この頃そういうことが増えた。
今日もきっと、”そういう”具合なのだろう。
「何がしたいのかなバクラ君は」
「うっせ」
「にらまないでーそのこっわい顔で」
密着した状態から離れて丁度僕の真上にバクラの体がきたせいで、
青い空はあまりみえなくなっていた。
もしかしたらそれが狙いなのだろうか。
こいつは自分の弱さを露呈するのを嫌っているから。
それで腫瘍の雲が消えるわけでもないのにこうやって隠す。
根本的な問題は解決しない。
僕まで弱る。それは困る。
相変わらず降りかかってくる髪の毛をいじってやりながら僕はため息をついた。
「今日も話すつもりないの」
「ねえな」
「じゃあやっぱり寝ちゃおうかな」
「知りたくもねえくせによお」
「お前こそ僕の考えなんか知りもしないくせによく言うね」
「しらねえよ」
「僕のことこうやって夢のなかで起こしといてその言い草ー」
「しらねえ」
だめだ。どうにもこうにも、こうなった時のバクラとの会話は堂々巡りを繰り返す。
「ねーお前なにがそんなに気にかかるの?
最近ずっと空の色真っ青だよね。
しかもさわやかな色調だよね、ぶっちゃけにあってないよ。
あんまり好きじゃないなぁ、夜のほうがいいなぁ」
「だったらてめえで屋根でも作れ。そしたら見えねえだろ」
「ここに屋根?ナンセンスだね、天蓋つきのベッドでも出そうか?」
「出せば」
「一緒に寝る?そーいえばここって僕の夢だよね?心の部屋?前々から思ってたけどなんでお前がいるのかな」
「・・・お前さぁ、こっちに対して開きすぎなんだよ。
嫌でも全部見えちまってんだぜ?有り得ねえだろ?
オレに気づいてなかった頃ならまだしも、
なんでいまでも仕切りとかそういうもんがねえんだよ。きもちわりい」
「お前馬鹿だね、もしかしてそういうの気にしてこんな頭のなかまでガタガタなの?」
「ちげえよ」
「そーだよねーどうせ遊戯君むかつくとかそういうのだよねお前は」
「いいかげん口とじねえと犯すぞ」
「天井なんて必要ないよ。空、見えなくなるでしょ。そしたらお前すねるだろ」
「すねない」
「夜がいい」
「無理だ」
「馬鹿」
「死ね」
「ふうん、そういうこというんだ」
その言葉には口を閉ざす。
髪の毛をいじり倒していた指を離してしまってもバクラは表情を変えない。
僕は真面目な顔して口を開いた。
「ていうかね、早く調子戻して。さみしいから」
表情は変えないが、変わった。
それが伝わってきたせいで思わず噴出しそうになって、
ごまかすように再び髪に指を絡めた。
バクラが眉間に皺を寄せたが、僕は首を横にかしげてみせる。
「馬鹿はお前のほうじゃねえか」
「物好きなだけだよ。誰かといっしょで」
僕とあいつの間には境となる天井がない。必要がない。
結局僕たちの間のボーダーラインが曖昧になっている。
「まあ屋根、天井?つけてほしいなら考えないこともないけど?
そしたら見えないねー、お前なんか」
「別に欲しいなんざいってねえよオレは」
「なんだ。じゃあいいじゃん」
ことんと頭だけで横を向くと、視界の真ん中で草が枯れているのがみえた。
顔の横のバクラの指はまだ地面に突き刺さっている。
原因はこれらしい。
指先を中心にどんどん大地が乾いていっているようで、
ふと気づけば仰向けの僕のまわりはすっかり乾いた砂地に侵食されてしまっていた。
セルリアンブルーの空は夕暮れの赤に変わるのをすっ飛ばして
おなじみの黒色に少し近づいたようだった。
それはつまりこいつの調子が戻ってきた証拠だ。
「はやく夜になればいいね」
「そうかよ」
「そしたら星でも出してあげるよ。すっごいきんぴかでお前が好きそうなやつ。
しかも今日は特別に全部お前にあげる」
「もらってどうすんだっつーの」
「砂漠の夜に満点の星なんてロマンだろ」
夜がいい。
やはり一番夜が落ち着く、
子供の頃も成長してからもこのことだけは変わらなかった。
バクラの顔が近づいてきて鼻先が触れそうな位置にまでくる。
目をあわせようとしたけれどあまりに近いせいで上手く焦点が結ばれずにぼやけた。
やはり夢だったのだろうか。
確かにぼくたちは似ていたのかもしれない。
あの時あからさまに脆弱な部分を露呈していたのはあいつの方だったように見えたが、
僕の方もきっと色々だめだったのだ。
だから天井の無い夢をみた。境界がなくなるようにと。
わかれる少し前、僕たちが一緒にいれた最後の方には、
あいつの感情が大きく大きくぶれるようになって短時間に何度も何度も様相が変わっていくようになったけど、それでも僕は空をみていた。
さみしいのはほんとだった。
あいつはさみしさなんて捨ててきたようだったのに。
あいつがいなくなっていつのまにか空は消えた。
夢のなかが青空になることも夕空になることもなくなっていつでも夜のように暗く、
それ以外に変わったところはなかったけれどもうあれは空じゃない。
星を作ってやる気にもならないくらいつまらない代物だ。
しばらくすると天井の無い夢を見ること自体なくなった。とってつけたように夢に現れるようになった天井が僕とあいつの断絶を表しているのに違いない。
そういえばあいつのいたあの空の向こう側にはなにがあったのだろう。
バカな男の話くらい、聞いてやってもよかったのだ。
08 12