オレンジの薫りがした。
腰に回されていた背後の人物の腕がぱちゃと音を立てて
水面から出るのと同時にだった。
「ねむい」
風呂場に声が反響するのがいやで獏良は小さな声で呟く。
入浴剤入りの浴槽のなかで、共同入浴中の男によっかかったうえに後ろから抱えられた体はそのまま魂でも抜けて動けなくなりそうだ。
浴室の全体には潤うようなつくりものの果実の空気。
オアシスという言葉がなんとなく浮かんだ。
「水ん中で人様に抱えられて眠るたぁどこの王様だお前は」
柑橘の薫りがする入浴剤と石鹸を選んだのはこの拘束する腕の主だ。
「王様、か。遊戯君とかそういう趣味なのかな」
適当に選んだのか思うところがあったのか獏良は知らない。
獏良はただ必要なものをリストアップした紙を持たせて買い物に向かわせただけだったし、においの指定などしなかったはずだ。
「なんでここでそいつがでるんだよ」
(だって王様がどうのっていったじゃないか)
「たとえだ、たとえ」
(ひとの頭のなか読むなっていうのに)
それすら読み取れたのかバクラは喉の奥で笑った。
二人で入る風呂は狭いが不思議と嫌とは感じない。
バクラの声がきちんと風呂場に響くたびにこいつは現実にいるのだと獏良は思う。
ただし思うだけで証明はできない。それが少し残念なことで当然のことだ。
「まぁ昔のエジプトとかにはこんなに贅沢に使える水はなさそうだよねぇ」
「さあなァ、どうだったか。あったかもしれねえが俺のまわりにはなかったな、でもあったのかもな」
「あったの、なかったの?」
「知るか」
「知るかってお前ね」
知らなくたって死にはしねえ、そう耳元で呟かれたあとバクラの指が首から鎖骨にかけてをなぞりはじめた。
丁度それらの付け根が合わさったあたりでふいに止まって、軽く押される。
脈拍をとるようにその場においたままにしたあと、満足したのかゆっくりとまた動き出す。
目のあたりにかかった前髪には指が差し入れられて、
なかなかの力で後ろのほうに撫で付けられた。
髪の間を指が通っていく感覚がわかる。
なんだか気分は毛づくろいされる動物のようだと自分で感じるあたりが滑稽だ。
普段の形相に似合わずバクラの指の使い方はなだらかで、
というよりそういう趣味嗜好なのかもしれないが、獏良はそれも嫌いじゃない。
早い話が可愛がられているのだ、破格なくらいに。
ただ少し、やさしくされるせいでいつも眠くなる。
現に視界には今にも幕が下りてきそうになっているが、それもバクラは気にしない。
オアシスのオレンジのかおりと、水のありかを忘れたバクラ。
(だから、こいつはこんなに渇いているのだろうか)
(原因はともかく渇いてるのは、たしかだ)
(困った奴)
(どれだけ水があってもきっと満足できないのだ)
そうしてしばらく緩慢に遊んでいた腕はいつの間にか再び獏良の腰まわりに戻ってきていた。
もう動く様子はなく、おとなしくしている。
定位置。落ち着く。言い訳は面倒だから作らない。
いよいよ重くなってきた頭を獏良はバクラの肩に預けた。
しっとりとして少しぬるい肩で、別にかわいてはいない。
目を閉じる。
頭の中に砂漠を浮かべてそこにバクラを置いてみた。
すぐ近くにはオアシスがあって自分は中央にある湖の中にいる。
あたりにはオレンジの木が生えていて、零れ落ちそうな実の薫りが自分のもとまで運ばれてくるようだった。
バクラはこっちをグラグラと熱で揺らすような目で凝視している。
案の定その目は渇いている。
バクラは口を開かない。
だから彼の渇きが求めているのはオアシスの水なのかオレンジなのかはたまた自分なのかわからない。
彼の存在は凄く遠くてだがひどくすぐそばにある。
自分はその目から視線をそらせない。バクラも決して目をそらさない。
しばらくそうやってガン付け合っているうちに彼の体にはヒビが入った。
ぼろりぼろりと崩れていってどっかの彼方に飛んでいく。
空の向こうに消えていく、元はバクラだった砂を見てオアシスのなかの自分はやっぱりなぁとため息をついた。
何かいってほしかったなぁ、と。
そうして自分はというと何かに足を掴まれて無残にも湖の底に沈んでいった。
吹っ飛んでいったバクラを思ってそのまま沈んでいく、
ざばあという音と一緒に水の雫が顔にぱちぱちと降りかかった。
「お前マジで寝るなよ!ずるずる滑っていきやがって!」
沈んだ体は下から何かに持ち上げられたようだった。
砂漠もオアシスも消えていて、消えたはずのバクラの声と体がある。
水底に一人で沈んでいった獏良もただの風呂場に戻ってきていた。
となると、さっき抱き起こしたのはバクラの腕だ。
「勘弁してくれよ、風呂場で居眠りついでに溺死なんて笑えねえ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃねえよ」
バクラが強く言ったせいで、声が反響して少しうるさい。
「大丈夫じゃないのはお前じゃん」
獏良の声も今度は響く。
なんなんだ宿主よぉ、と呆れて言うとバクラは獏良の髪に鼻先をうずめた。
ぎゅうと腕に力が込められ抱き寄せられたから当分は沈む心配はないだろう。
頭蓋の奥にオレンジの香りがしつこく残る。
「あーもーどっか旅行にでもいきたいな」
「いいんじゃねえの」
「涼しいところー食べ物のおいしいところー」
「最高だな」
「え、お前も来るの」
「おい!」
獏良の顔に一発ばしゃりと水がかかった。
バクラはいつか砂になって吹っ飛んでいくからちっとも大丈夫じゃないと獏良はいいたかった。
欲しいのかどうかは知らないが今度は本物のオレンジを買ってきてやりたいとも思った。
エジプトに本当に水がなかったのかもオアシスにオレンジなんかあるのかも知らない。
教えないバクラが悪いのだ。
どれだけ強く拘束されていようがそれと同じくらいの力でバクラが思い切りよく獏良から離れていくのが目に見えるようで、
それがいつもさびしかった。
オアシスの湖で溺れてももうバクラは助けにこない。行方もしらない。
2007 07 21