部屋に入るとすぐに、自室が見るも無惨なほどにぐちゃぐちゃになっている事実を獏良は目の当たりにした。
電気をつけた途端に飛び込む惨状。 昨日のうちにとりこんで美しいほどに整頓しておいたはずの洗濯物の塔は横殴りに倒されていたし、
先日クリーニングにだしたばかりの真白いベッドカバーはこれもまた残念なことに真っ二つに裂かれて白い波のように床にかぶさっている。
本棚からは一列横隊を保ったまま本が落ちている。 極めつけには、キッチンからわざわざ持ってきてわざわざわったらしいグラスの欠片が壁際できらきらと光っていた。
おおかた壁にでも叩きつけたのだろう。
まるで石のように砂のように細かくなって、しきりに蛍光灯の明かりを反射している。
ああやってられないと思って獏良はため息をついた。
思わずこめかみを押さえて低く唸る。獏良にはこんなことをした覚えはなかった。される覚えもとてもなかった。


「なにかんがえてんの」


独り言ではない。明確な相手がいる。
しかし答えは無い。


「お前がやったんでしょう」


胸のリングを弾く。カチンと金属音がして、
それでもやはり獏良の望む返事は返ってはこなかった。



なにも今回が初めてではない。
獏良の家は、不定期というには頻繁に、しかし定期的といえるほど規則性もない間隔で荒れることがあった。
そして最近は少しだけそれが顕著だった。
獏良はもちろんそれは自分に寄生している何者か、
つまり便宜上自らと同じ名前を冠すバクラの仕業だと思っている。
獏良は口に出して止めなかった。止められると思わないから止めなかった。



たくさんの物品がそれぞれ思うままに散乱する部屋の中央まで歩み出たあたりで、獏良はつま先に当たったなにかに気づいた。
しゃがんで手にとってみると、いつか、だれかからもらったフィギュアだった。
誰だったか。 迷彩の軍服に機関銃つきの洋モノのソルジャーの雄姿。
足が一本もげている。もがれたというのが適切だろうか。
服ごとちぎれて左足が失われている。 ひどいことだ、と獏良は思った。


「ねえ、なんで足とっちゃったの?兵隊なのに、これじゃあどこにもいけないじゃん」
役立たずじゃない?
兵士を片手でつまみあげて問いかけた。
人形の表情は変わらない。当然のことだ。



「どっかにいってほしくねえからだろ」


声がしたのは獏良の耳のすぐ横からだった。
振り向かずにいると、後ろから目の前に二本の腕が現れてそのままからだを掻きこまれる。



「なんで?さみしいの?」

「さみしいんじゃねえの?」


「だからっていって部屋を荒らすのはやめてよね。かまってほしいならかまってあげるから」


「俺じゃねえよ」


「お前以外に誰がするの。」


回された腕をすっと撫でる。あくまでイメージだった。
バクラの姿はあくまで、獏良のイメージだと獏良は認識していた。
自分以外にみえない存在、たとえ実際に存在するものであっても、
第三者からみればそうではない。 だからやはり彼のからだが可視であるのは自分のイメージのせいだと思っている。



「お前、でしょう」


「違う。」


「違わない」


「いいかげんにしとけ」


「何言ってるの?そのまま返すよ。あんまりきかないとお前の足ももぐからね」


「もぎたいくせに」


「もいだのはお前でしょ?さみしいんでしょ?」


「誰が?」


「なんなの?なんでさっきからつっかかってくるの?さみしいんでしょ?どこにもいってほしくないんでしょ」


「だから誰が?」


「お前がだ!お前が、さみしいからこんなことを」


抱き込むバクラの腕に爪を立てながら獏良が叫んだと思うやいなや、
手にしていた片足の人形を床に叩きつけ彼は勢いよくバクラのほうに向き直った。 放り投げた人形に目もくれず、白い髪が目に掛かっているのを払おうともせず、
その奥からのぞく眼光は、色素こそ薄いがただの深淵以外のなにものでもない。
一体何を吸い取ろうというのか。ガラスじみた無機質な目はいまにもひびが入りそうでならなかった。
痛々しいことだ、とバクラは思う。


「どこにもいってほしくないんでしょう?」


ねえ、そうでしょうと獏良がなお声を荒げた。
再び肉に食い込んだ爪が中身を破って血をにじませる。
じわじわと出てくる赤に、しかしこれも獏良にとっては自らが生み出すイメージに過ぎないのだとバクラは思った。
ちらと壁にかかった時計の針を仰ぎ見るとちょうど夜の9時をさしている。
こいつは夜はだめだ。最近はずっとだめだ。
朝もだめだが夜もだめだ。




「どこにもいってほしくないんでしょう?だから壊したんでしょう?
足をとればだれだってどこにもいけないもんね」



獏良の指が蛇のようにバクラの首に巻きついてくる。
そのまま絞め殺さんばかり、ぎりぎりとからみつく。
視界の端に足のもげた人形と、そのさらに向こうに散らばる破片の輝きが見えた。
今伸ばされている白い腕には切り傷がある。割れたグラスで切った傷がある。
ついさっき、切ったわけではない。獏良が自傷したわけでもない。バクラがつけた傷でもない。
が、バクラがつけた傷というイメージが獏良のなかにあるからやはりそれは獏良にとってはバクラがつけた傷なのかもしれなかった。
獏良は自己完結が大好きだった。


バクラはもう一度時計をみる。
(さっきから五分もたっていない。さらにいうなら、グラスの割れる音を聞いてから一体どれほどの時がたったというのか)

「足だけじゃたりない?足りないなら手だってなんだって切ってあげる」

獏良は美しく唇を歪ませて、そして両手に力を込めた。
この行為すら獏良のなかではイメージにすぎないのだろうかと思うとバクラは虚しくなる。
どこにもいってほしくないんでしょう、と獏良の呪詛を聞きながらバクラはイメージのなかで何度も死んだ。
獏良はいつ自分のその言葉の矛盾に気が付くのか。
どこにもいってほしくないんでしょう。
そんなことを言われたらどこにもいけなくなる気がする。
しかし、気がするだけだ。
気がするだけでもうそろそろだというのに。

ガラスは投げられたから割れた。投げた本人が気づかないならいつまでも粉々に壊れたままに違いない。
現実を見ないのはお互い様だと自嘲してバクラは目の前の獏良の髪を撫でた。
想像よりは少し固いそれを。