ではこちらの契約書にサインを、と。事務的な声と事務的な動作で紙とペンが差し出された。
指に馴染んでひやりと冷たい感触がする。
あの部屋を出ることを決めたのは少し前のことで、いろんなことがあってからはそこそこに時間の経った頃だった。僕の体を間借りしていた奴が転居したのは僕の体にとって悪いことではないようだ。たしかに体は軽かった。痛くも痒くもなくなった。敷金も礼金もゼロで始めた異様な賃貸物件と住人の契約は、不慮の事故による住人不在の状態のまま解除されたが、それについて口を出せるほど僕にもあいつにも力はなかったということだろう。
今度のマンションは今よりひとつ部屋が少なく、かわりに面積が広いものを選んである。だいたい一人であんな部屋数のマンションに住む必要などどこにもなかったのだから困ることも特にない。来客の心配はするものじゃない。するだけきっと無駄だから。
家捜しなんか簡単だ。こんなにすぐにみつかっただろう。砂漠に家を建てるわけでも湖の底で眠るわけでもないのだから。風呂付きトイレ付きキッチンリビングダイニングぼくの部屋。
だめなら次をあたればいい。あいつはどうして苦労したんだ?家捜しなんか簡単だ。
紙の最後に自分の氏名を。それで契約は成立する。
苗字を終えて名前の一画目に差し掛かったあたりから、久遠のねぐらが崩れて重なる錯覚が来た。
家捜しなんか簡単だ。お前の地獄を僕は知らない。