バクラがいつもと同じようにダイニングのテーブルに座っていた。
僕は特にかける言葉が見つからなかったからいつものとおりのいつもの手順でいつもの味のコーヒーをいれて彼の前に出してやることにする。
僕のそのおもしろくもない作業をバクラは終始しっかりと目で追っていた。
この白い部屋の窓は全開になっていてそこから風が吹きぬける。
窓の外の景色はよくみえない。少なくとも僕にはみえない。
二人分の準備を終えて僕も向かい側の席につく。どうぞ召し上がれとそこで初めて声を発すると、
いただきますなんてやつらしくもなく丁寧な返事が返ってきて僕は笑った。
なんで笑うんだというような顔をするからもっと笑えた。
途端にバクラの眉間に皺がよる。
僕がごめんと謝るとまあいいけどなと呟いてバクラはコーヒーに口をつけてしばらく黙った。
考えてみればこうやって一緒に飲むのは初めてだ。
いつも、そういつもなら二人分のコーヒーを入れたとしても飲むのは一人ずつだった。
身体を交代しながら、今みたいにこのダイニングのテーブルで対面する席に僕たちは座っていた。
いつもなら僕が飲み終わるまでバクラがみていた。いつもならバクラが飲み終わるまで僕がみていた。
今は僕がこの目でバクラを見ている。バクラはあの目で僕を見ている。
違うのはそれくらいのものだ。何が起こるわけでもない。
いくらか飲んだあと、ああいつもの味だな、かわらねえもんだなとバクラがぽつりと感想を漏らした。
そうだね、変えるつもりはあんまりないよと返したあとに僕も湯気の立つ黒々とした液を喉に通す。
― そうだ。さっき新聞見たけど明日の夕方からお前がみてたドラマ再放送らしいよ。
お、いいねえ。あれ流れてたのいつだったっけ?
え、覚えてないよ。結構前でしょ。一年前とかそんなんじゃないの。
・・・そんなにたったかぁ?
知らないけど。
じゃあ一年遅れて世間が俺様の感覚にようやく追いついたってわけだな。
別に再放送はお前のおかげじゃないよ。
また身もふたもねえことを。
うん。
おう。
話はそこで途切れた。もとより重要でもなんでもない内容だから仕方が無い。
再び無言に戻って僕たちはまた向かい合ったままぼんやりとしていた。
何か話そうと思ってはいても今更急いてバクラに話さなければいけないことも思いつかない。
ぼくたちはひたすらに時間を素通りさせた。
息を吸うたびにコーヒーの香りが鼻腔の奥に入ってくる。休日のよくある香りだった。
― 随分長くそうしていたような気もするが実際にはそうでもないのかもしれない。
わからない。やはり長かったかもしれない。
目の前のバクラもカップの中身をのぞいたり僕の顔を横目でみたりと特に目的はないようだったから僕は放っておいたのだけれど、
そうしているうちに飽きたのだろうか。
なんか話せよとつまらなそうに彼が言った。
・・・・・今日電車でね、ちっちゃい子に席をゆずったんだ。
まだ小学一年生とかそんなんだと思うんだけど。ランドセル背負ってたし。
すっごいおおきい荷物もってよろめいててーでも頑張ってて。
うわーえらいなあと思ってさあ。
それでどーぞーってゆずってあげたらありがとーとかいいながら笑ってくれてねー、
よかったなーとか思ったんだけど、いざ立ち上がって歩こうとしたら頭がぐらっときちゃって。
とととーってよろめいたらプレイヤー落としちゃった。
きまずいよね。かなりきまずいよね。男の子もぎょっとしてたし。
で、しょうがないから適当に笑ってごまかしてその場を離れたんだけどー
確認したらやっぱりこわれちゃってた。
まったくやだなあ、人生上手くいかないね。
僕がコーヒーのカップをいじくりながら淡々と話すと、
バクラは慣れないことをするからだと鼻で笑った。
なに、僕だって親切心ってもんがあるんだけど。
あるのは知ってる。まあ、貧血治せよ。
ばかにするような物言いに反論をしてみたが、ななめ方向からあしらわれた。
ここ数年の持病ともいえない持病は事実治すにこしたことはないが、そういう問題ではないだろうに。
僕はやや不満を残しながらもかわらずカップの中身を揺らしながら話を続ける。
だって遊戯君とか見てたらさ、僕ももっと人に優しく生きないといつか誰かにのろわれるかもなあと思ってね。
ほんと尊敬に値すると思う。彼は。
穏やかだし。ぶちぎれないし。
お前みたいにむやみやたらに声もでかくないよ。
器のボーヤのとり得はそれぐらいだろ。
あいつからそういうのとったらきっとなんにものこらねえぜ。
お前だって強欲のかたまりじゃないか。人のことは言えないくせに。
お前から欲をとったらなにが残るのさ。
何が残ると思う?
だから知らないよ。
知らねえの?あっそう。てっきり気づいてると思ったけどな。
・・・でも最近の遊戯君はもう一人の遊戯君と似てるかもしれない。
やさしいのもお人よしなのもかわらないけど。
顔つきがかわったかな。
凛々しくなったよ。
いいことだね。
お前も俺に似てると思うぜ?
僕?僕がお前に似てるの?
面白いこというねぇ。
大体よく考えたらさ、
お前がだれなのかすらわからないのにお前に似るって、
すごい芸当だ。
さすが僕。
俺もおまえもばくらだろ?別に難しい話じゃねえよ。
わからないのは似てるからだ。似てるからわかんねえんだよ。それだけだ。
難しくはなくてもややこしいよ。
たまに忘れそうになるもの。
お前のことなんか。
たとえば普通に生きて普段どおり過ごしてなんのへんてつも無い会話を誰かとするでしょ。
僕がだよ。お前じゃなくて僕が普通に生活すると。
そうするとお前がどういう顔でどういう表情でどういう考え方なのかわからなくなるよ。
もとからわかっちゃいないけど。
忘れそうになるよ。
なるほどねえ。薄情ものめ。
・・・薄情?
なに、何にやにやしてんだよ。
だって、ねえ。
だってなんだよ。
だってさ、笑っちゃうじゃない。
だからなんだっつの。
だって、お前こそいなくなってもう一年もたつじゃないか。
僕の言葉にバクラは少しだけ驚いたようだった。
それまで不敵に細められていた目が丸くなったのがよくみえた。
しかしすぐに調子を戻して、一年もたつのにお前は忘れないんだなと呟いた。
忘れたいわけじゃないんだよと言い返しかけて、けれどコーヒーと一緒にそれはのみこむ。
忘れようとしなかったわけではけしてない。
ねえ。
ん。
いまさらだけどひさしぶり。
おう、久しぶり。
ピンピンしてるね。相変わらず。
宿主さまも相変わらずぱやぱやしてるな。
もう地獄に落ちたかカスも残さず消えたかと思ってたよ。
あ?お前、地獄なんて信じてたっけ。
お前がいるなら信じてもいいよ。
僕が真顔でそういうと、バクラはあっそと吐いて目を伏せた。
宿主さまは知らなくていいんじゃねえの。
・・・またそれ?
いいじゃねえか。
お前ってほんとずるいね。
そうかもな、それくらいの方が素敵だろ。
いつまで僕はバカのままでいればいいわけ?
バカな子ほどかわいいじゃねえか。大体お前の頭はわるかない。
いっとくけどお前はばかだよ。
否定はしねえよ。もとから出来が良くはねえんだ。
ねえ、なにしにきたの。
宿主さまと茶のみにきた。
夢のなかまでご苦労さまだね。
なんだ、わかってたのか。
わかってたよ。
つまんねえな。
コーヒー、おいしい?
うまい。
それはよかった。
ぜんぶだぜ?
ぜんぶ?
なんだってうまかったってこと
・・・・ふうん。
うそじゃねえよ。
ばかだね。もうおそいよ。
呆れたように僕が唸るとバクラはまたおかしそうに喉で笑った。
笑うとあいつの髪が揺れる。今もゆれた。ついこの前まで、一年前まで僕の横で揺れていた。
僕はそれが嫌いじゃなかった。今だって悪くない。
バクラが笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。
随分久しぶりに見た気がする。僕も笑った。
いつもの顔で笑う。僕はコーヒーのカップの中に写っている。
笑っている。バクラに似た顔で笑っている。
気づかなかったことにここではじめてようやく気づいた。
― 一通りけらけら笑い終えてからバクラは最後の一口を飲み干した。
そろそろ行くぜと立ち上がって開けっ放しの窓に向かう。
もういくの。
もういいさ。
バクラが気持ちよさそうに髪をなびかせながら言った。
風が絶えず窓を通っている。窓の向こうはうすらぼやけて僕にはやはりよく見えない。見えないように、そういうしくみになっているのだろうから仕方が無いことなのかもしれない。
それでもまさか窓から出るということもないだろうにと思って扉ならあっちだよと指をさしたが、
少し思案するような顔をした後にあいつはその扉は通れないといった。
お前の入ってきたやつだろう、あれはもうオレさまは通れねえよ。
そうなの。
そうなの通れねえの。そっちにはもういけねえの。
そうなのか、と僕はなんとなく納得して首をかしげると、同じ顔がその僕をみてまた笑った。
見納めだろうな、とそう思った。
じゃあさようなら、ひゃははといつものようにでかい声を出して窓の向こうにあいつは跳んでいった。
それを見届けて、僕も立ち上がる。入ってきた扉を通って白く歪んだ部屋を出る。
最初で最後の二人揃ってのお茶会をしたテーブルの上は、全部そのままにしておくことにした。
もはや片付ける必要も捨てる必要もない。
ああ、あの笑い声がやっぱり懐かしいなと頭のすみで思うと喉の奥と気道のどこかがツンとする。
もうこれから先、獏良了がバクラに会うことはないのだろうか。
あいつがさようならといったらそれはぜったいにさようならなのだとなぜだか僕は思い込んでいるようだった。
さようなら。
うん、さようなら。
けれど言葉にしてみた途端にその空虚な5文字に自分の口角が引きあがるのがわかった。
どうせあと60年もすれば、いやいくらなんでも80年もすれば僕だって死ぬ。
そのあとに会えるのかはわからない。わからなくていいけどわからない。
やっぱりあえるかもしれない。あえないかもしれない。
わからないけど今は死なない。僕は死なない。あいつは死んだ。
でも僕は死なない。死なない。
あいつが消えたら僕が残った。あいつがいなくても死にたくない。
意外だった。不思議だった。わからなかった。
これからも死なない、死なないがしかし
(また一人だよばかやろう)